昭和四十八年八月十六日 朝の御理解
御神誡
一.「腹立てば心の鏡のくもること」
腹立てば心の鏡のくもるという事は、おかげは和賀心と仰有る、おかげの受けもの、それがくもるという事は、おかげが映らない、おかげが映じないという事。
腹を立てると云う事は、折角のおかげの実体というのがここにありますけど、それが映らない、心がくもってしまうと、ですから、これは腹立てばと云うだけの事ではない、いわば、おかげの受けにくいとか、受ける、そんな事ではおかげは受けられないという心のすべてだとこう思うです。
例えて云うならば、不平不足を云うては心の鏡がくもると云うても良いわけなんです、腹立てば心の鏡のくもる事、腹立てば、所謂、おかげが映らないと云う事。
今日は、私は、大体は教典を開かせて頂くと、御神訓と云うのがあります、ここんところの御神訓の訓と云うところだけ頂くのです、実は、そして、次の又お願いさして頂いたら、一番ここの端にある、腹立てば心の鏡のくもることを頂きましたから、まあその訓と云う字を一つ今日は理解づけて頂きますから、ここんところを聞いて頂きたい。
これは、私、直感的にこう感じたのです、言篇に川が書いてありますね、ですから私は、云うた事を流すという事に例えて、ここでは私が皆さんにお話を聞いて貰う、そのお話を良く聞かずに、右から左に流してしまう、云うならば御教えを頂いておっても、御教えを一つも頂かない、右から左にする、だから、そういう心はおかげは受けられないと云う事。
だからね、腹立てばだけの事じゃないです、おかげの受けられない、いわばありとあらゆる心というものが、段々なくなって行く、それが信心、所謂おかげを頂く筈だという心だけになって行く、信心とは、それを教祖は、和賀心と仰有る、和わらぎ賀ぶ心とこう仰有る。
そこでその腹立てば心の鏡のくもる事というのは、腹立てば、例えば不平不足を云うたら、根性の悪い事を云うたら、心の鏡のくもる事とも云える訳です、第一に今日は、私が皆さんに聞いて頂く、それを例えば成る程と思うても、それを実行しない、右から左に流してしまう、ではおかげの受け物というか、おかげの受け場は、なくなってしまうという事なんです。
先日から頂きました、一寸法師の様な小さな人が、小さい雲水が、万寿笠をかぶっておるお知らせを頂いている話を聞いて頂きましたね、万寿笠と云うのは、万の寿とこういう、お互いが願ってやまないおかげと云う事。
そのおかげを例えば、大人もののおかげと云うか、大きなおかげを例えば頂きたい、例えば頂いておってもです、これは私の事ですけど、私自身が、小さかったらおかしなもんだと云う事、そこで私共大きうならにゃいかん太らにゃいかんとこう云うのです、そこで、大きゅうなれ大きゅうなれと云う事です、勿論、心がですよ。
心が愈々豊かに、大きく云うなら一人前の大人になってこの万寿笠をかぶると云う事が、おかげのこれは理想的なおかげと申しましょうか、そういうおかげを目指さなければいけない、だから、様々な事やら、問題やら、苦しい事やら、悲しい事やら、ありますけれども、そういう様々の事をです、自分の心の根肥やしとさせて貰う、自分の心の大きゅうなって行く事の為に、それが行使される、心がいやが上にも大きゅうなって行く、心がお大きくなって行けば、おかげも大きゅうなって行く事は問題ない、そんなお知らせを頂いたんですがね。
今日はおかげの受けられない心、そう云う事ではおかげは受けられないと云う事の、について、三段階に頂いた。
信心をさせて頂いておっても、まあ様々で一番最高のところが、云うならば、所謂、雲水行ですね、雲水、梅林寺の坊さんあたりの様に、万寿笠をかぶって一人前の修行が出来て、そして、云うならばもったいないほどしのおかげ、万寿のおかげを頂いて行くという事。
その次にはね、昔の旅人がですね、縞の合羽に三度笠というか、例えばああ云う、侠客の人達の様な姿、あの姿に、特に三度笠というところを印象的に頂いた。
これは、私は感じたんでけども、万寿笠の次は三度笠と、これは、仏の顔も三度と云うでしょう、もう、いっちご致しません、いっちご致しません、改まる、日々の改まりが第一とおっしゃるから、これは本気で改まろう、こういう心の状態では、おかげは受けられん事が判って来る、そこで改まる、本気で改まる、ところが又失敗をする、これなんかも、改まると云いながら、改まらないという事。
次には、三度笠というのをポーンと捨ててしまってですね、人足というか、遊び人と云うのでなくて、何か云うなら、お芝居の時、神埼與五郎の東下りの時に出て来る雲助の様な格好をしておる、もう品もなければ、只、がむしゃらな感じなんです、髪もボーとした様な感じの、それを頂く、そして、三度笠をポーンと捨てるところを頂く、これはどう云う事かというと、もう信心させて頂いておって一番つまらん、おかげの頂けない品のない信心だとこう思う。
だがそう云うのはどう云う事であろうかと思わせて頂いたら、御理解頂く事がね、例えば難儀な事が起こって来るとね、その難儀な事を、人のせいにするという、これが信心させて頂くものの一番げってんです、自分の悪い事は棚の上にあげて、人が悪い、あれがああしたから、人がこうしたから、例えば、夫婦で云うなら、主人がもちっとがた、家内がまちっとシャンとしてくれると、と云う様な事をです、平気で云う様なものが信心の一番最低です。
例えて云うならば、私が家内の悪口を云うと致しますならば、私は自分で自分の………上を向いて唾をはいている様なものです。
これは、親とか、子とか、家内とかだけではありません、これを人のせいにする、人の悪口を云う、そして、少しでも自分の顔を良くしようとする、これが雲助の様な信心です、それは信心しとるから、おかげは受けましても、信心では最低です。
つぎには、少しは がようなってです、まあ云うなら遊び人風の三度笠をかぶって縞の合羽で旅をしとる様な信心、これは云うなら言を左右にする、もう三べんどころじゃない、五へんどころじゃない、神様に何べんも何べんも嘘を云うて居る、と云う様な信心、今日は私の云う事を聞くという事、御神訓の訓と云う字から頂いた。 もうその事は親先生から、口が酢ゆうなるごと親先生から聞いた話だけれども、まだ自分のものになっていない、これでは矢張りおかげが受けられないという、だから、最高のおかげは云うならば、例えば、そう言うような場合、例えば人のせいにするとか、言を左右にするとかでなくて、その事を実意に取組ましてもらう修行、そして、例えばそこに、例えば様々な難儀が起こった様な場合それは確かに、あの人がこうしたからこうなったという場合であってもです、その人のせいにせずにです、それを自分の手許のところに持って来て、相手を云うならば、責めたり、悪う云うたりしない様な信心、そこにいやが上にも心は豊かに大きくなって行くおかげになる。 腹立てば心の鏡のくもる事、という事は、腹立てれば心がくもる、おかげが映じない、おかげが頂けないという事は、腹立てだけでないという事をです、今日は三つの角度から聞いて頂いた。
様々な難儀な問題を、時勢のせいにしたり、人のせいにする生き方が、信心を頂いておるものの、これは最低である、痛い思いを例えばするならです、痛い思いをせなければならない内容を自分の心の上に持って行くところからです、心は清まります。
その事をもって清まる事も出来れば、また、改まって行こうという意欲も出来る、同時に出る事をです、ここでお話を頂いた事をです、右左にして行く様な事でも、矢張り心の鏡がくもるのと同じですから、おかげが受けられない。
私共は云うならば、小さい体に大人の三度笠をかぶっておる様なものである。
本当の神様のお願いして下さる万寿のおかげを頂く為には、人間の幸せのすべてを身につけさしてもらう、万の寿をつけさして頂く為にはです、自分自身のです、小さい事、自分の細い事を悟らしてもらう、愈々自分自身が成長する、おかげの受け物を愈々大きくなるところの手立てというか、そういう信心に精進して行かねばならない、ねばならんのにもかかわらず、それこそ仏の顔も三度と云われるのに、三度どころか、繰り返し繰り返し、失敗ばかりしておると云う様な事ではならん、同時に難儀な元を人のせいにする様では、愈々成長どころか、おかげは受けられないと云う事であります。
今日、愈々祈願祭が行われる訳です、ですから確かに……祈願祭ですから一生懸命云うなら、ありとあらゆる私共の願いというか、願望というものを本気で願わせてもらいたいとか、とりわけここで云われておる、五つの願いを本気で又願わして貰うたらよかろう、だから、そういう願いが熱烈であればある程です、神様は喜んで下さる、なぜって、神様は氏子信心しておかげ受けて呉れよと云うのが、神の願いだから、神様の願いを、私共が、どうぞおかげを下さいという願いが一つになるのですから、神様の願いも、私共の願いも一つなのだから、もう繰り返し繰り返し五つの願いをさせて頂くたんびんに、いわば神様の感動を受けます。
そうなんだよ、そのおかげを受けて呉れる事が神の願いだよと、云って下さる様な感じがする、ですから、そういう願いを本気でさして頂くのですから、なら、神様がおかげを下さってもです、今日頂きますおかげの受け物がです、出来ていなかったら、願うおかげは下さるけれども、それを自分で受け止める事が出来なかったら、又、頂いたおかげを散漫にしてしまうのです。
祈願祭という事は、私は願うという事と同時に、おかげの受け物を本気で作らして下さいという願いも、相俟っておらなければ、祈願祭の値打ちはないと思うですね。 どうぞ。